吉備池の歌碑群と磐余池の幻
初瀬街道は名張から室生、榛原を経て長谷寺門前を通り、やがて桜井に至ります。古事記に出てくる上古の宮跡が数多くある桜井市。なかでも磐余地域には、履中天皇の磐余稚桜宮、継体天皇の磐余玉穂宮、用明天皇の磐余池辺双槻宮など、記紀に録される宮が集中しています。そして書紀履中天皇条には、「磐余池を作る」という記載があります。この磐余池で、大津皇子は「みまからしめらるる時、磐余の池の堤にして涕を流して作らす御歌」を残したのです。
ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
死を前にして、もう見ることのできない磐余池の鴨を見て、「この世」への愛惜を押しとどめることができない。辞世の歌と伝えられるものによくある悟った風や無理をした潔さとはかけ離れた、人間として深く共感できる歌です。
この草に埋もれたような歌碑は、磐余地域のやや東側にある桜井市吉備の池のほとりに建っています。残念ながらその池は江戸時代に作られたため池で、磐余池でないことはほぼ確定的だそうです。なぜここに歌碑が建てられたのかわかりませんが、忘れられた感じがしてしまいます。
この池は吉備池といって、実は国の史跡にもなっています。といっても池が史跡なのではなく、吉備池廃寺として、藤原京にあった百済大寺の可能性のある寺の跡として。発掘調査では、飛鳥寺や山田寺を上回る巨大な金堂の基壇や、九重塔とみられる塔の基壇が見つかっています。残念ながらすべて埋め戻され、百済大寺をしのぶよすがは何もないのですが。
池の上空からは、左から香久、畝傍、耳成の大和三山が見渡せ、それらに囲まれた藤原宮跡、そして大津皇子の墓がある二上山が望めます。ロケーション的には磐余池にしてしまってもいいほどの風景で、だから歌碑も建てたのでしょうか。大津皇子の歌碑の少し南側には、やっぱり草に埋もれて、大伯皇女の歌碑も建っています。
うつそみの ひとなるわれや あすよりは ふたかみやまを いろせとわがみむ
105歳まで生きた日本画家の小倉遊亀さんの揮毫です。伊勢から大和に戻った大伯皇女が、二上山に移葬された弟に寄せた歌。「磯の上に生ふる馬酔木を‥」の歌の前に位置します。家が立ち並ぶ今でも、少し歩けば大和国中のどこからでも望むことができる二上山。生き延ばされた自分にできることは、弟を想いながら山を「見る」ことしかない。
吉備池の北にある春日神社には、大津皇子の辞世の漢詩とともに、大伯皇女のもうひとつの挽歌が彫られています。
神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに
4つの挽歌の最初に記されたこの歌には、伊勢から大和への長い道のりが大伯皇女にとってどんなに虚しく、空っぽな旅だったかを語っています。さらに万葉集では、もう一度「なにしか来けむ」と自問する歌が続きます。
見まく欲り わがする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに
「馬疲るるに」という言葉が醸す投げやりな感じ、やるせない、ある種の諦念のような空気。でも、それだけではない気がします。
大伯皇女の挽歌4首のうち3首には、「見る」という動詞が出てきます。君を「見たい」と伊勢から来たのに、馬酔木を「見せたい」君はもういない。いまは二上山を君と思って「見よう」--磐余の池に鳴く鴨を「見た」大津皇子の遺した歌と共振する挽歌群は、単なるやるせなさや虚しさの吐露ではなく、非情な運命に抗する意志を込めた祈り、あるいは呪いのような気がします。その呪力が、繰り返される「見る」に込められているのではないか、と。
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