夏見廃寺と名張の山
斎宮から伊勢本街道を西に向かい、途中で雲出川を下って、国道165号、かつての初瀬街道を再び西に向かいます。弟の死を知らされ、飛鳥の都に戻る大伯皇女のたどった道は、詳しくは分かりません。青山高原の下をトンネルで越え、名張市に入ると、もはや伊勢ではなく、伊賀の国。流れる名張川もやがて木津川となり、淀川となって大阪湾に注ぎます。
陸上競技場や野球場が集まった名張中央公園に隣接して、国史跡の夏見廃寺があります。飛鳥時代から奈良時代にかけて存在した「昌福寺」ではないかとされ、「薬師寺縁起」には大来皇女(大伯皇女)が父の天武天皇を菩提を弔うために発願したと記されています。大津皇子が刑死した後、大伯皇女の生きた跡が残っているのです。
上からの写真でも見えていますが、夏見廃寺には金堂、塔、講堂の基壇が残っています。発掘調査では、礎石や瓦とともに、塼仏(せんぶつ=粘土を焼き上げた板状の仏像)が見つかりました。当時は金箔が施されていたと考えられ、展示館には復元した709個の塼仏から成る金色の壁が展示されています。
金堂跡へ向かう路傍に、犬養孝さん揮毫の歌碑がありました。
磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りといはなくに
岩の上に生えていた馬酔木を折ってはみたものの、一緒に見て楽しもうと思った君--弟、大津皇子はもういないのに。万葉集には大伯皇女が弟を悼む歌が4首載っていますが、どの歌にもやるせない悲しみが主低音のように響いています。
夏見廃寺=昌福寺は、天武天皇を偲んで建てた、と薬師寺縁起にはあります。しかし、この姉弟の運命を思うと、この廃寺は大津皇子の鎮魂のために建てられたと思わずにはいられません。そして、伊勢の斎宮から胸を引き裂かれる思いで飛鳥へ向かった大伯皇女は、この名張の地を通ったに違いないと。
近鉄名張駅前には、名張の地名が出てくる万葉歌の歌碑が建っています。
我が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ
持統天皇の伊勢行幸に従った当麻麻呂(たぎまのまろ)の妻が、夫のことを想って作ったとされます。大和と伊勢の間にあって、古代から歴史の節目に登場する名張。肥沃な伊賀平野を抜けて、初瀬街道は古事記の神武東征神話の舞台となる宇陀へと進んでいきます。
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