大伯皇女を追いかけて
近鉄特急で伊勢志摩に向かうと、伊勢中川を過ぎたあたりから起伏がなくなり、田園の中を快走します。松阪を経て、櫛田川を渡ってしばらく行くと、左手にだだっ広い空き地が出てきて、あれっと思うまもなく駅を通過します。ここが飛鳥時代から南北朝の頃まで存在した斎宮(さいくう)、伊勢神宮の天照大神に奉仕する内親王たちが暮らした地です。
斎宮の起源は、書紀によると、天照大神を祀る地を求めて行脚した倭姫命が、ようやく伊勢の地に上陸した時に遡ります。斎宮の駅から約5キロ、現在は漁港となっている大淀の地には、斎宮にまつわる伝説の地がいくつもあります。とりわけ伊勢物語に出てくる在原業平と斎宮の逢瀬にちなんだ「業平松」は、江戸時代に2代目、40年前には三代目が植えられ、禁断の恋の物語を今に伝えています。
再び駅前に引き返し、斎王の森に向かいます。南北朝時代以降、朝廷から斎王が派遣されなくなって斎宮は荒廃し、江戸時代には地名しか残らなかったと言います。それでも地元には斎王の森と言い伝えられた森が残り、90年前、三重県が森の中に「史跡 斎王宮阯」の碑を建てました。森の一角には大津皇子の姉として万葉集に6首を残す大伯皇女の歌碑も建てられました。
わがせこを 大和へやると さ夜ふけて あかとき露に 我がたちぬれし
天武天皇と大田皇女の間に生まれた大伯・大津の姉弟は、母を早く失ったためか、強い絆で結ばれていたようです。天武即位に伴い、斎宮として伊勢に赴任していた大伯皇女を、大津皇子が「密かに伊勢の神宮に下りて」訪ねたのは、天武天皇が崩御し、後継をめぐり鸕野讃良皇女(後の持統天皇)の周辺で不穏な空気が漂っていたころ。夜通し思いを語った弟を見送る朝、大伯皇女の胸にあったのは不安なのか、もっと切羽詰まった感覚だったのか。
その後の発掘調査で、斎宮は斎王の森ではなく、駅に近い南側にあったと推測されています。推定地には斎宮が暮らした斎宮寮などの十分の一模型を中心に、碁盤の目の区割りを復元し、最盛期の斎宮タウンのイメージを示す狙いのようです。といっても、上空から見ないと、碁盤の目もよく分かりませんが。
二人ゆけど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ
大津皇子を見送った大伯皇女は、弟を案じる歌をもう1首残しています。秋山を独り越ゆらむ、という言葉の響きに、秋山の黄葉を茂み迷ひぬる、という人麻呂の挽歌が共振します。その不吉な予感は的中し、謀叛人としての弟の死の報を受け取った大伯皇女は、斎宮を後にして、自らも大和へ向かいます。
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