久々利と泳と八十一鱗の誇り
日本書紀景行天皇条に、天皇が三野(美濃)を訪ねた時、弟姫という美女がいると聞いて、行宮に池をつくり、鯉を放して誘いをかけた話が載っています。結局、弟姫は鯉を見に行くものの、天皇の誘いは拒み、代わりに姉の八坂入媛を妃に推します。八坂入媛は13人の子を産み、その一人が13代成務天皇とされています。行宮は泳宮(くくりのみや)とされ、岐阜県可児市久々利に伝承地があります。
宮は久々利川に沿った田園集落の端の方にあります。伝承に沿って作られたと思われる池があり、石橋がかかっていましたが、鯉はいませんでした。敷地には高さ約20メートルのフウの木があり、隣には村の祭りの山車の収納庫があります。「泳」と大書された門が、古代から続くという村人の誇りを表しているようです。実際、可児市教委が子どもたち向けに発行している「可児市のじまんとほこり」という冊子では、泳宮の伝説に1ページが割かれています。
鯉が泳いでいたから、泳宮なのでしょうか。地名の「久々利」は万葉仮名的な一字一音、つまり当て字であって、「泳=くくり」が先にあったと思われます。水面をくぐるということなのか、それとも別の語源なのか。百人一首の「からくれないに水くくるとは」も、もしかしたら紅葉が水面を泳ぐように流れている風景かもしれません。
江戸時代から泳宮伝承地として知られたこの村に、さらに誇りを与えたのが、1998年に明日香村の飛鳥池遺跡で出土した木簡でした。そこには「丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/物部古麻里」と記され、天武天皇の時代の西暦677年、三野国加尓評(現在の可児市?)の久々利に住む物部古麻里が、「次米」を都に納めたことを示しています。国名が記された最古の木簡であり、現在の久々利集落が1300年以上も前から存在していたことを裏付ける一級史料です。集落内にある可児郷土資料館に、レプリカが展示されています(ちょっときれいすぎますが)。
ククリが登場するのは、日本書紀と木簡だけではありません。泳宮伝承地には、万葉歌碑があり、「百岐和 三野之国之 高北之 八十一鱗之宮爾……」と始まる長歌(巻十三、3242)が刻まれています。「ももきね みののくにの たかきたの くくりのみやに……」。万葉集では、くくりのみやは「八十一鱗之宮」と表記されているのです。分かりますか?9×9=81で、「くく」りのみや! 内容は美濃の山の険しさへの恨みが中心で、泳宮がテーマになっているわけではないのですが、万葉仮名の面白さ(難しさ?)を強烈に教えてくれる歌です。
久々利には戦国時代の山城跡もあり、地元の人の手で登りやすく整備されています。上空から見ると、久々利川と泳宮(写真中央の森)が寄り添って見えます。さまざまな表記もまた、「くくり」の人々にとっては誇りなのでしょう。他の地域、ましてや他国を見下す尊大さではなく、先人たちの歴史の流れの中にあるという静かな自尊を育てる、そんな古典や歴史の学び方があるのでは、と感じる旅でした。
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