越中の二上山を《見る》

今回、越中の万葉巡りをした目的のひとつに、二上山を見たい、という思いがありました。吉野から奈良の学校に通っていた私にとって、二上山は親しみ深い存在でした。とりわけ、大和国中を南北に縦断する(私鉄で最長の直線区間もあるそうです)橿原線の車窓から見る二上山は、雄岳と雌岳ご均整のとれたペアになって、とりわけ夕景は見とれるほどでした。(写真は香久山から見た二上山です)
万葉集で二上山というと、悲劇の皇子、大津皇子がすぐ思い出されます。天武天皇の没後すぐ、謀反の疑いをかけられ、「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨をけふのみ見てや雲隠りなむ」という歌を残して自ら縊れた時、まだ23歳。遺体は二上山雄岳に葬られ、姉の大伯皇女は「うつせみの人なる我や明日よりは二上山を弟背と我が見む」という歌を残しています。二上山のふもと、當麻寺近くの公園には、このどちらでもなく、大津皇子がまだ元気な時に石川郎女に贈った「あしびきの山の雫に妹待つと我が立ち濡れぬ山の雫に」の歌が刻まれた犬養孝さん揮毫の歌碑があります。
大人になって大阪に住むようになり、二上山を《裏から》見るようになりました。写真は石川左岸から撮ったものですが、大和側からとは逆に左側か雄岳、右が雌岳になります。いずれにせよ、葛城、金剛と高くなっていく山脈の北端の 山として、二上山は知られ、愛されてきました。とりわけ雌岳は、頂上に広いスペースがあり、桜の時期には山肌までピンクに染まります。
さて、万葉集に出てくる二上山は、もう一つあります。大伴家持が国司として赴任した越中高岡の二上山です。「玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり」をはじめ、詠まれた歌は10首を超え、大和の二上山を上回ります。いったいどんな山なのか、なぜ家持はそんなに愛したのか。そんな思いを胸に高岡に足を踏み入れたのですが、肩透かしにあったような、裏切られたような、なんともいえない気持ちになりました。だって、二上山といいながら、二つのピークがわからないんですから。
写真は高岡から氷見線に乗った途中、小矢部川を渡る橋の上から撮った二上山です。274メートルの男岳は高くそびえていますが、左側に見えるはずの259メートルの女岳はよくわかりません。よく見るとなんとなくピークが二つあるようにも見えますが、大和の二上山とはかなり印象が違います。
かなり離れた射水新湊・内川から望んだ二上山です。はっきりしたピークは主張していますが、やっぱり「ふたかみ」の名にはそぐわない気がします。いずれも東側からの風景で、家持がいた越中国府こらだと見え方が違うのかも、と北東側の伏木の町から眺めてみました。
左に見える大きな屋根の建物が、越中国府跡と推測される勝興寺です。北側に回っても、やっぱりピークはひとつにしか見えません。ただ、左側に段差のようになっている平たい部分が見えます。もしかして、これが女岳?
国土地理院の地図を見ると、確かに伏木からは二上山の左側に259メートルの城山が見える位置になっていて、等高線を見ても平たい感じです。高岡市発行のパンフを見ると、城山は女岳にあたり、南北朝時代に守山城という山城が築かれ、削られて平らにされたとありました。つまり、いま見ている二上山の風景は、家持が見た二上山とは違っているわけです。
削られる前はこんな感じだったのでしょうか。近代化の過程で、あるいは戦争で、日本の山々の風景もあちこちで変えられ、失われてきています。つい近年にも、奈良・御所でゴルフ場拡張のために国史跡の巨勢山古墳が破壊されたりしましたが、そんな動きはなんとか止めたい。でも、その破壊が700年前のこととなると、こりゃどうしようもないですね。なんとか想像力をフル回転して、万葉の二上山に想いを馳せるしかないようです。

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