沙弥島〜海と死と橋と
青春18きっぷの最後の一日分を使って、始発で坂出に向かいました。途中児島で降りて、駅前にある大伴旅人の歌碑を
訪問。筑紫からの帰り、現地で親しくなった児島という遊行女婦と交わした歌が彫られてあります。
倭道は 雲隠りたり 然れども 我が振る袖を 無礼(なめ)しと思ふな
倭道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも
歌碑は折り畳みの本のような形で、なぜか左半分は空白になっていました。万葉集で旅人と児島が交わした歌は全部で4首あるので、あるいは途中で予定が変わったのでしょうか。
再びJRに乗って、瀬戸大橋を渡ります。与島を過ぎて備讃瀬戸大橋に差しかかると、右手前方に島が――正確には陸地が見えてきます。埋め立てで坂出と地続きになってしまった沙弥島。柿本人麻呂の石中死人歌の舞台、きょうの目的地です。坂出市営バスで20分、埋立地には工場や住宅が建って、どこからがもともとの島なのかもよくわかりません。
バス停を降りると、年季を感じる案内板があり、地図や道標もたくさんあって、迷う心配はありません。島には千人塚、白石などの古墳が多く、公民館には出土品がいっぱい展示されていました。島には標高30メートルほどの丘が3つありますが、そのうちの2つに古墳があり、島の先端の長崎鼻でも石棺が見つかっています。
バス停からゆっくり歩いて15分ほどで、ナカンダ浜に着きました。閉校した沙弥小・中学校の横にトイレが整備されていましたが、温水洗浄便座だったのでびっくり。浜辺に瀬戸内国際芸術祭春会期で展示されていた作品が残っており、その北側に人麻呂の歌碑がありました。
石中死人歌は長歌と反歌2首から成っています。長歌はまず讃岐の国ぼめから入り、那珂の津から船出した人麻呂が荒波にあい、「名ぐはし狭岑の島」に避難した、と展開します。そこで出会ったのが「波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に ころ臥す君」でした。石の転がる浜辺に横たわり、永遠の眠りについている男は、漁で生業を立てる海人だったのか、筑紫へ向かう防人だったのか。それを詮索もせず、人麻呂の思いは彼を待つ妻へと飛びます。家が分かれば教えに行ってあげたいが、「玉桙の道だに知らず」、告げることもできない。いとしい妻は、ひたすら待っているのだろうな、と締めます。
反歌でも、待つ者への視線が続きます。
妻もあらば 摘みてたげまし 沙弥の山 野の上のうはぎ 過ぎにけらずや
沖つ波 来寄する有磯を 敷栲の 枕とまきて 寐(な)せる君かも
うはぎとは、ヨメナのこと。妻が来たら、浜の背後の山に生えている野草を摘んで、食べさせてあげられるのに。といっても、男は亡くなっているわけですが、それでも飢えを癒やしてあげたい、という心が響きます。でも、実際には妻は夫の死を知ることもできず、ヨメナもむなしく旬を過ぎて食べられなくなっていく。おそらく傷みが激しい遺体を前にして、不意に襲った死と、それに構うこともなく過ぎていく時間の酷薄さに、人麻呂の意識は向かっているのでしょう。
ナカンダ浜の歌碑の周りには、坂出市内の学校の名前が入ったミニ歌碑が50近くありました。ウメやクリ、タチバナなど、植物が出てくる万葉歌を記して、その植物も植えて万葉植物園を目指したのだと思いますが、植物の方は荒れてしまってどれがどれやらわかりません。各地に万葉植物園はありますが、きちんと管理されているところは少ない気がします。うまく学校教育とリンクさせて、子どもたちが世話できればいいでしょうが、学校統廃合が進む中ではないものねだりなのでしょう。
さらに北にもうひとつ小さな浜があり、そこに川田順揮毫の「柿本人麿碑」が建っています。こちらの浜(オソゴエの浜)のほうが波が荒く、打ち上げられるならこちらかもしれません。近くには人麻呂岩という岩礁もありました。
こうして海岸線をたどっていると、沙弥島が本当の島だった頃、さらには1700年前の人麻呂の頃に思いを馳せることもできるでしょう。しかしひとたび海側を振り返れば、そこには科学技術の塊ともいえる瀬戸大橋が島々をつないでいます。とりわけ沙弥島の沖には、備讃瀬戸大橋の橋脚を作るために海底に埋め込んだアンカレイジが、強烈に自己主張しています。
オソゴエの浜から長崎鼻へ登っていくと、そこにも石棺がありました。縄文の丸木舟のころから、どれだけの人が海で命を落としてきたんでしょう。もちろん、古墳も石棺も、海を支配した権力者たちが葬られているのかもしれません。いずれにせよ、沙弥島には、そしてほかの島々にも、避けることのできない死のしるしが刻まれているように思います。決して不吉なしるしではなく、私たちに「死を忘れるな」と呼びかけることで、生の充実を促す、そんな波の音として。
改めて瀬戸大橋を見ると、あきれるほどがっちりしています。保田与重郎が「日本の橋」で描いたような頼りない、みすぼらしい橋ではなく、もしくはこの世と異界/高天原をつなぐ夢の浮橋でもなく、確実に四国を本州と結ぶ、現世と現世の橋。あるいは、巡礼の場であり、あの世に近い島であった四国=死国を、経済が支配する本州につなぎとめ、統合していく鎖としての橋。それは死と対極にあるようで、でもやっぱり死から逃れられないはず。高度成長期にできた橋が老朽化し、通行止めが日に日に増えているこの国で、瀬戸大橋だけが永遠であるわけもないのです。
沙弥島の先端、長崎鼻から見た塩飽の海は、人麻呂がうたった通り白波が騒いでいました。海と死と橋との三角形を描きに、もう一度訪れたいとおもいます。
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