布勢の水海を《見る》

高岡駅から氷見線に乗って氷見市を目指します。途中の雨晴海岸は、天気が良ければ富山湾越しに雪をかぶった立山が見られる絶景の路線。ただあいにく立山連峰は雲に覆われ、家持がほめたたえた山々の姿を見ることはできませんでした。
氷見駅でレンタサイクルを借りて十二町潟水郷公園を目指します。電動アシスト自転車を無料で貸してくれた(氷見線利用者が対象)ことには感動しました。ただ照りつける太陽の威力がはるかに上回り、20分ほどで公園に着いた時には汗びっしょり。首に巻いたタオルを絞ると水道の蛇口を開けたような感じで、我ながら呆れていました。
この公園は、十二町潟という池を中心に、蓮池や万葉植物園、池をめぐる木橋などが整備された親水公園です。小高くなった芝生の園地には、犬養孝さん揮毫の「萬葉布勢水海之跡」の碑が建っています。越中国司時代の大伴家持は、しばしば友や中央からの役人とここを訪れ、舟遊びなどを楽しんだようです。当時は現在は水田が広がる一帯全体が湖で、全く違う光景が広がっていたと思われます。
家持は万葉集に「遊覧布勢水海賦」を残し、この湖へと向かう道中の浮き浮きした気分を道行きのような長歌に仕上げています。そして添えられた反歌が、「布勢の海の沖つ白波あり通ひいや毎年に見つつ偲はむ」です。布勢の海に毎年でも通って、その美しさを見て偲ぼう、という土地を褒める歌。正直、長歌の方は肝心の布勢の海の美しさは「渚には あぢ群騒き 島廻には 木末花咲き」と短く触れているだけですが、末尾の「いや毎年に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと」が、反歌と呼応して、「見る」ことへの強い意志を表しています。
新湊のところで取り上げた「あゆの風」の歌でも、家持は「釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」と歌いました。「漕ぎ隠るらし」とか、「漕げど隠るる」とかでもよさそうだけど、あえて「見ゆ」で締めています。布勢の海から南東の方角に望める二上山をうたった賦でも、「山からや 見が欲しからむ」と詠んでいます。越中国府から四方を巡り、それぞれの絶景を褒めたたえる家持の歌は、舒明天皇の香具山国見の歌を思い起こさせます。「見る」ことをうたうことで、家持は越中の地を天皇の「しらす」地として宣言していたのではないか。万葉末期になっても、「見る」ことの呪術的な意味は、失われていなかったように思います。
十二町潟は天然記念物のオニバスをはじめ、いろんなハスが生息しています。カンカン照りの太陽に負けず、そこここで花が開き、深い緑の背景にほのかな紅色を主張していました。

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