あゆの風と日本のベニス

8月初めの暑い盛り、高岡から万葉線に乗って東新湊まで行きました。目的は、万葉集にうたわれた「奈呉の浦」の跡をしのぶこと。といっても、周辺は新産業都市としての開発が進み、半世紀前には富山新港が建設されて往時の面影はとうていありません。
あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟こぎ隠る見ゆ 大伴家持
わずかに海岸部に残るこんもりした森が、放生津八幡宮。境内には家持が奈呉の海をうたった歌碑が残されています。冒頭の「あゆの風」とは、春から夏にかけて強く吹く東風を、古の越の国の人々が呼んだことば。あゆの風に海が波立つために、漁師の小舟が上がり下がりし、波に隠れてしまうのが見える、という情景です。いまは「あいの風」という方言となり、北陸線が3セクになった「あいの風とやま鉄道」に名を残しています。

放生津八幡宮から少し歩くと、内川に行き当たりました。海岸はすぐそこだというのに、岸と平行に流れている不思議な川。もともとは海に注ぐ川だったのが、港湾や工場地帯の開発に伴って海と海を結ぶ約2キロの運河となったそうです。写真は歩行者専用の東橋(あずまばし)。スペイン人のセザール・ポルテア氏の設計だそうです。
橋の屋根には金魚の風鈴が吊り下げられていて、海風に軽やかな音を立てていました。内川にはあわせて12の橋がかかっていて、地元では観光コースとして橋巡りをPRしています。東橋のすぐ上流(?)にある放生津橋の欄干には、室町幕府第10代将軍足利義材(よしき)の銅像がありました。
流れ公方と呼ばれた足利義材は、室町幕府が衰え、守護大名の力を頼らずには地位も保てなくなった時代、管領細川氏に幽閉された末、越中に逃れ、畠山氏を頼って捲土重来を期した将軍です。越中にいたのは約5年、次は越前、周防と転々とし、都落ちから15年後に京都に戻った後も安定せず、結局また都を追われて阿波で生涯を閉じました。
そんな将軍の悲劇を知ってか知らずか、内川の両岸には「海人の小舟」が舳先を並べ、向こうには家持が愛した二上山の山並みが望めます。地元ではNPOが中心になって川の浄化を進め、「日本のベニス」として売り出し、映画のロケ地にもなって訪れる人が増えているといいます。遊覧船も運行しているようです。
もともと内川のことは全く知らずに訪ねた新湊でしたが、こんな楽しい町並みがあるなんて、意外な収穫でした。あゆの風が運んでくれた、新しい奈呉の浦の光景です。

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