真土山 紀伊への道行き
真土山ははっきりしたピークを持つ山というより、大和と紀伊を分ける壁のような存在だったように思えます。飛び越え石の上空から東側を望むと、尾根の上にホテルがあって、その向こうが五條市、大和国になって、さらに向こうに高見山をはじめとする吉野の山々が望めます。
飛び越え石からもとのコスモス畑に戻ると、和歌山側に歌碑の道が延びています。最初に出てくる比較的新しい歌碑は、上面に万葉仮名、側面に読み下しが彫られた便利な歌碑です。
橡(つるばみ)の 衣解き洗ひ真土山 本つ人には なほ及(し)かずけり
つるばみ(どんぐり)で染めた衣を解いて洗ってまた打つ真土山ではないが、やっぱり元から連れ添った人がいいな。歌の趣旨は大伴家持が浮気な部下を諭したという「紅は うつろふものぞ 橡の なれにし衣に なほしかめやも」の歌と呼応するものがあります。古里の家に残した妻を想う「馬なずむ」の歌もそうですが、真土山〜まつちやま、またうちやま〜の音には、慣れ親しんだ「うちの妻」を思い起こさせる語感があるようです。
さらに行くと、森のはしっこに橋本駅にあったスタイルの歌碑が出てきます。犬養孝さんの「万葉の旅」の抜粋とともに、石上乙麻呂が女官と通じた罪で土佐国に流刑になった情景を描いた長歌が記されています。
石上 布留の尊は たわやめの 惑ひによりて 馬じもの 縄取り付け 鹿猪じもの 弓矢囲みて 大君の 命恐み 天離る 夷辺に退る 古衣 真土山より 帰り来ぬかも
獣のように扱われて辺地へ送られる乙麻呂に対し、真土山から帰ってこないものかなあ、と詠んだのは、身内なのか、それとも語り部なのか。乙麻呂の流刑の歌は万葉集に4首あり、ひとつの歌物語を構成しています。
そここら急坂を登ると、ちいさな集落に出てきて、道標と一緒にまた長歌の歌碑があります。
大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の男と 出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路より 玉だすき 畝傍を見つつ あさもよし 紀伊道に入り立ち 真土山 越ゆらむ君は 黄葉の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我は思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙もえあらねば 我が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千たび思へど 手弱女の 我が身にしあれば 道守の 問はむ答へを 言ひやらむ すべを知らにと 立ちてつまづく 笠金村
聖武天皇の紀伊行幸に随行した役人の恋人に頼まれ、笠金村が代作した歌です。奈良の都を発って、軽、畝傍、真土山と後世の道行のように歌が進みます。あなたは旅を楽しんでるんだろうけど、私は追っかけて行きたくても、番人に問われた時にどう答えたらいいか分からないから、立ってはつまずいて追っていけない、というやり切れなさが込められています。
古代の紀伊は、玉津島や和歌浦など風光明媚な場所があり、湯治の場としての牟婁の湯があり、流刑の船の経由地でもあったのです。さまぞまな感慨を込めて真土山を見た万葉びとの息遣いが感じられる散歩道。もう少し続きます。
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