藤原京と四方を囲む山

雷丘から少し北に進むと、飛鳥古京とは少し違う「空き地」に行き当たります。一部は田んぼになっているけど、おおむね原っぱで、そこここに遺跡を示すらしい柱がある。ここが持統天皇が694年に日本初といっていい本格的な「みやこ」を置いた藤原宮跡です。
みやこを南北に貫く幅24メートルの朱雀大路の跡は、いまも痕跡がわかるように整備されて、その傍に万葉歌碑が建っています。

藤原の 古りにし郷の 秋萩は 咲きて散りにき 君待ちかねて 作者不詳

揮毫は司馬遼太郎。都が奈良に移った後に残った萩のうたっています。人麻呂の近江古京の歌を想起させるシチュエーションですが、舟遊びする大宮人を幻視した人麻呂ほどの切なさは感じさせません。
それよりも、藤原京の万葉歌といえば、この長歌が浮かんできます。

やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 ‥‥
大和の 青香具山は 日の経の 大き御門に 春山と 茂みさび立てり
畝傍の この瑞山は 日の緯の 大き御門に 瑞山と 山さびいます
耳成の 青菅山は 背面の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり
名ぐはし 吉野の山は 影面の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける‥‥

巻二の「藤原の御井の歌」と詞書がついた歌ですが、このみやこの四方を囲む山々を讃え、中国の影響を強く示しています。実際、上に掲げたパノラマ写真でわかるように、藤原京は北の耳成、東の香久、西の畝傍という大和三山と、南の吉野連山を四方に配しています。
写真の赤で囲んだ部分が、藤原宮の朝堂院(役人らが儀式や政務に携わった空間)の範囲です。四辺に並ぶ柱が、四つの門の柱穴の跡(ずれていますが)を示しています。そのすぐ上の森のようなところが大極殿の跡で、ちょうど10月3日、その右側(東側)に新たな回廊跡が発見された、と発表がありました。
発掘はまだまだ続いています。市街地がすぐそこまで迫っている平城宮跡や百舌鳥・古市古墳群に比べ、古代の姿を想像するのがずっと容易な藤原京。多彩な石造物が残されている飛鳥とともに、世界遺産登録を目指す動きも活発になっています。
もうすぐ藤原宮跡一帯にコスモスが咲き乱れます(写真は7年前の10月です)。ぜひこの「空き地」に実際に立って、花の向こうに四方の山を見渡してください。1300年間、ほとんど変わっていない山の姿を「見る」ことで、持統天皇や人麻呂たちの情を共有できるかもしれません。

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